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T-12 パシシル文化
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T‐12 パシシル文化


T (パシシル文化)


*(rakurakuhp.netが破綻し、連絡がとれない。このため、2014年にN氏の協力によりrinoaguri.rakurakuhp.netをこのホームページに移動し再開した。N氏に感謝する。著作者rinoaguri)*


パシシル文化とはアメリカの人類学者ヒルドレッド・ギアツによってモデル化された沿海文化のことである。 マレーシアからインドネシア沿海を中心とした東南アジア沿海部では、民族や言語は異なるが、均質な沿海文化が広がる。 しかし、内陸では伝統的な民族文化が存在した。同じ民族でありながら、内陸地域と沿海地域では文化が異なることが多かった。  
現在、マレーシアからインドネシア沿海はイスラム文化が中心であるが、イスラム以前にはヒンドゥー文化、仏教文化が、沿海文化として栄えた。 歴史上、名高いシャイレーンドラやシュリーヴィジャヤも港市国家をしたがえる交易帝国であった。しかし、内陸を完全に支配していたわけではない。    交易で栄えたために、得るところのない内陸支配に興味もなかったのではないかと思う。 マレーシアからインドネシア沿海を中心とした東南アジア沿海部では、民族や言語は異なるが、均質な沿海文化が広がる。 けれども、内陸では伝統的な民族文化が存在した。同じ民族でありながら内陸地域と沿海地域では文化が異なることが多い。 これをパシシル文化という。

   参考:シャイレーンドラ朝 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』     http://ja.wikipedia.org/wiki/シャイレーンドラ朝   「ボロブドゥール寺院を造営したことで知られるシャイレーンドラ朝」   「シャイレーンドラは、その意味(「山の王家」)から、インドシナ半島の古代王国「扶南」のプノン(山)と関係があり、シャイレーンドラ・シュリーヴィジャヤ王国は何らかの意味で、扶南の後継者にあたるのではないかとする見方がある。」   「8世紀後半、シャイレーンドラ朝は、広く東南アジアの海域に進出した。当時のカンボジアやベトナム南部のチャンパ王国の碑文には、ジャワの水軍が襲来したことが記されている。」   「カンボジアのクメール人にひろまった大乗仏教は、シャイレーンドラの影響が大きかったのではないかという見解もある。」   「9世紀半ばには、シャイレーンドラはシュリーヴィジャヤと合邦して11世紀の滅亡までスマトラ島を本拠地として、政治力と商業力で周囲に君臨した。」
   参考:シュリーヴィジャヤ王国 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』    http://ja.wikipedia.org/wiki/シュリーヴィジャヤ王国   「シュリーヴィジャヤ王国は、7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配し、多くの港市国家をしたがえる交易帝国であり、東はスマトラ島のパレンバン、西はマレー半島西岸のクダないし北スマトラと、海峡の両端に2つの拠点をもっていた。 この海上帝国は、スマトラからマレーにまたがる連合国家で、中国やインドともさかんに通商をおこなった。 旅行者の記録ではスマトラの沿岸部では金貨が流通していたが、内陸部には及んでいなかったとしている。」


  また、マレーシアからインドネシア沿海地域では、交易の必要から簡易マレー語を共通語としていたことはよく知られている。 インドネシア共和国が、国語(インドネシア語)に、マレー語の一方言を採用したのは、簡易マレー語が沿海地域の共通語であったからだっただと言われている。 また、歴史的背景として、 15 世紀から 16 世紀初頭にかけてマレー半島南岸に繁栄したマラッカ王国の影響が挙げられる。 マラッカ王国からイスラームが広がり、その言語であるマレー語が、商業用語として広く用いられていた。インドネシア語はマレー語とよく似ており、互いに通じ合う。 タガログ語とも類似点が多い。発音は日本語とほぼ同じであるため、日本人にとっても学習し易い言語である。
  インドネシア語の属するオーストロネシア語族は言語の系統関係の推定によると台湾→フィリピン→インドネシア付近→メラネシア→ポリネシアという経路で拡散したという説が有力である。   発音の類似等からオーストロネシア語と日本語の関係が示唆されている。   日本沿岸、東シナ海沿岸、東南アジア沿岸に至る交易は想像以上に古くから行われていたのかもしれない。
  参考:     http://ja.wikipedia.org/wiki/オーストロネシア語
   参考: 日本語の起源   http://ja.wikipedia.org/wiki/日本語の起源  「オーストロネシア比較言語学の観点   現在、主流の見解は、南島語を基層とし、アルタイ系言語が上層として重なって日本語が形成されたとするもの」

   参考: 縄文人 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』   http://ja.wikipedia.org/wiki/縄文人  「形質人類学の分野では、化石人骨が比較的多く見つかっている東南アジアと日本列島の旧石器時代人との類似を指摘する研究が多い。」  「身体のサイズは違うが、ポリネシア人と縄文人の骨格の類似性、また日本語とポリネシア語の音韻が近いことから、ポリネシア人の祖先であるラピタ人がこのミッシングリンクをつなぐとも考えられている。」  「宝来聡によると、東南アジアの少数民族と現代のアイヌおよび琉球弧人が共通の因子を持つとされ、形質人類学においてこの両者と縄文人が特に近いとされることから、縄文人のルーツの一つに東南アジアの旧石器時代人が存在したとの見方が可能である。」
  参考:マラッカ王国   http://ja.wikipedia.org/wiki/マラッカ王国  「マラッカ王国は、15世紀から16世紀初頭にかけてマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家」  「香料貿易の中継港としてインド、中東からイスラム商船が多数来航し、東南アジアにおけるイスラム布教の拠点ともなった」  「当初から一貫して中国・明王朝の忠実な朝貢国であり、同時期に交易国家として繁栄した琉球王国とも通好があった」  「スマトラ島南部パレンバンのシュリーヴィジャヤ王国の王子パラメスワラが、従者を伴ってマレー半島に逃れたのが王国の起源である」  「1405年に明への朝貢を開始、明の鄭和艦隊の保護下でマラッカは東西貿易の中継港としての道を歩み始める」  「農業で得られる収益は歳入の10パーセント以下であり、交易の収入と関税、従属国からの貢納が財源の多くを占めていた」  「王国は商品の売上税や関税から利益を得、またスルタンや高官は商人より個人的に受け取った貢物で富を蓄えた」  「他国よりも低い関税であり、周辺の港が12%の関税をかけていたのに対してマラッカは6%の低い税率(食料に税は課せられなかった)と若干の貢物を設定し、ジャワ、スマトラ、中国など東方からの船舶には関税を免除し、貢物のみを要求した」

  参考:琉球王国   http://ja.wikipedia.org/wiki/琉球王国  「東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。」  「その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結びつきが知られる。」

  参考: 目からウロコの琉球・沖縄史  http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/09/post-e3a0.html  「15〜16世紀の琉球は中国や東南アジアに大量の日本刀を輸出していました。  日本刀は中国陶磁器とともに東南アジアへもたらされましたが、これらの日本刀は琉球が日本から入手したものとみられています。」

  参考: 日本刀(琉球)  http://proto.harisen.jp/mono/mono/nihonn_tou_ryukyu.htm  「日本刀は室町期には一貫文の刀剣が明では十貫文で売れたといわれており、対明貿易で利鞘の稼げる交易品であった。  日本刀は琉球船によって東南アジアにも大量に輸出されていた。日本刀は現地では琉球の音であるリキウとかレケオなどと呼ばれており、琉球人自身も東南アジアでは、現地語で刀剣を意味するゴールに由来してゴーレスとも呼ばれていた。」 <


 また、日本の民族学者で東京大学名誉教授、大林 太良は西日本から朝鮮、江南、海南島に至る東シナ海沿岸にも、同類の海人文化が分布存在し、東南アジアの「パシシル文化」と構造的に類似する。東シナ海沿岸地域についてもこのモデルによって説明できると主張している。
 参考:東アジア漂海民と家船居住 淺川 滋男   http://www.kankyo-u.ac.jp/photolib/research/P00098.pdf
 大林 太良のいう同類の海人文化は西日本だけでなく東日本にも存在する。  海人文化は黒潮圏文化といってもよく黒潮という海のバイバスにより東海道沿岸に運ばれた。  
      参考:黒潮圏文化  http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/3/3-03.html  「黒潮は日本海流とも呼ばれる暖流であり、世界で最大最強の海流です。」  「日本列島の文化は、温かい黒潮の恵みを多く受けており、黒潮圏文化と呼ぶことも可能です。」


 東南アジアの「パシシル文化」と構造的に類似する同類の海人文化が、黒潮により、東日本から朝鮮、江南、海南島に至る東シナ海沿岸にも、分布存在した。そして、交易は、北海道、樺太、沿海州に至る。交易ルートは環太平洋にまたがる壮大なスケールで、拡大していたとの仮定で説明できることが、多いように思う。  商人たちが、拠点とした港町にも一定の自治は存在していたのではないだろうか?  そうであれば、環太平洋ハンザ同盟の初期段階とでもいうべき都市の提携が存在していた可能性がある。

 歴史・民俗学者、網野善彦は、日本の中世後期には東南アジアと東アジアとの交易が盛んになり、東南アジア各地の港市のネットワークが形成され、琉球、博多、堺などは、その交易ネットワークの拠点として繁栄したと指摘している。  網野善彦の指摘も「パシシル文化」と構造的に類似する海人文化(黒潮文化)が、古代に既に存在していたと考えれば、よく理解できる。

 *.以下は、現在、作成中の事項である。パシシル文化の世界は壮大で奥が深い。  そのため、整理することが、難しい。  パシシル文化を理解するのに役立つかと思い、素材をそのまま、掲載する。  私にとっても、作成するのに、この方が便利である。*
「BC5,000年頃(縄文時代中期)には勾玉が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されており、縄文人が海を渡って交易をしていたことが考えられている。
日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 忌部氏

「古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる」

(余談)楽市楽座について
織田信長も越前忌部氏の末裔といわれる。有名な楽市楽座も信長が、交易で利益を得るために行われたのではないかと思う。楽市楽座には謎が多い。
中世の経済的利益は座・問丸・株仲間によって独占されていた。信長はこれを排除した。
しかし、排除するだけでは信長の利益にならない。
おそらく、信長は、卸元である津島や堺の座からの運上の増収を見込んでいたのではないかと考える。
信長は消費地の座は廃止し、港市の座は残したのではないかと思う。このことを裏付ける古文書等はない。
しかし、上杉謙信の経済政策についての古文書等は上杉家が江戸時代も存続したために残されている。
上杉謙信の軍事活動を経済的な面から支えていた青苧座は信長の楽市楽座の目的を示唆するものである。
謙信も、信長と同じく、たびたび、軍勢を引きつれて、上洛している。青苧の利権を守るために販売元の青苧座に圧力をかけていたと考える。
「殺されたくなかったら、俺の青苧を俺の言い値で買え」ということだったのだろう。
上杉謙信は”義の人”として知られている。
しかし、謙信は商売上手だった。謙信は”敵に塩を送る”の美談で有名だ。
けれども、塩止めに苦しむ甲斐に塩を送ったのも、高値で売れるから送っただけではないかと思う。
”敵に塩を送る”とはいっても、タダで送ったかどうかはわからない。
仮に、タダだったにしても、信玄の方でも、礼儀上、倍返しで、お礼をしなければならない。
信玄にすれば、どちらにしても高くついたと思う。
なを、当時、越後の塩の販売の利権は馬借が握っていたらしい。
謙信は、馬借から運上(税)をとっていたのだろう。結局、”敵に塩を送る”の真相は馬借の自由にさせ、運上(税)を稼いでいたということなのだろう。
謙信は莫大な金を春日山城に蓄えていた。
謙信の死後、相続財産をめぐって、養子の景勝と影虎が、凄絶な死闘を繰り広げている。
上杉謙信は”義の人”というより”貯蓄の人”である。戦うハゲタカ・フアンドみたいなものだと思う。

上杉氏は桃山・江戸時代に会津、米沢に移封になった。
それとともに青苧栽培技術が伝来された会津・米沢両藩産の青苧との競争に越後の青苧は敗れ、衰退することになる。
越後秘蔵の青苧栽培技術を持ち出したのは直江兼続である。

下記の天竜寺船や勘合貿易の仕組みからも信長が、卸元の商人から交易のピンハネをしていたのではないかと考える。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 天龍寺船

「夢窓はまず1艘を派遣することとし、博多商人の至本(国籍は不明)を綱司(船長)として推挙。至本は貿易の成否に関わらず、帰国時に現金5000貫文を納めることを約し、 予定の通り翌康永元年(1342年)8月に元へ渡航した。」

「天龍寺船は莫大な利益を上げて帰国。このときの利益を元に天龍寺の建設が進められ、康永2年(1343年)11月に竣工。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 日明貿易

「遣明船に同乗を許された商人は帰国後に持ち帰った輸入品の日本国内の相場相当額の1割にあたる金額を抽分銭として納付した。」
「室町幕府は有力商人にあらかじめ抽分銭を納めさせて遣明船を請け負わせる方式を取るようになるが、その際の抽分銭が3000-4000貫文であった。」
「そのため、その10倍に相当する商品が日本に輸入され、抽分銭や必要経費を差し引いても十分な利益が出る構造になっていたと考えられている。」

(3)日本は古代、多夫多妻制だった。村落では、その風俗は、江戸時代まで続いたと考えられる。近代的な一夫一妻制になったのは明治維新で西洋化したためである。
多夫多妻制は交易に訪れる異人が、現地に移住するのに極めて都合のよい婚姻制度である。
交易商人は単身で、交易地を訪れ、現地の女性と関係を持つことが多かったであろう。
多夫多妻制が、交易とともに均一な沿海文化を普及させることに役立った。
交易には利害の衝突からトラブルがおきやすい。トラブルを避けるための、融和と信頼関係が、交易には必要である。
交易に必要な融和と信頼関係を築くためには、異人が現地の女性と関係を持つことが容易な多夫多妻制は便利な制度である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 妻問婚

「妻問婚(つまどいこん)とは婚姻の一種で、夫が妻の下に通う婚姻の形態のこと」「女系制の伝統のある社会など母権の強い民族に多く見られる婚姻形態」
「インド南部ケララ州に住むドラヴィダ人、古代の日本人など」「ケララのドラヴィダ人は多夫多妻制の女系社会を築き、同じ一族に属する数世代の女系家族が同居する生活を営んでいた。」
「一人の女性に複数の男性が通うことも多く、結果、女性が妊娠した場合は、遺伝上の父親ではなく一族の長である女性が認めた男性が女性の夫、子供の社会的な父となる。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 夜這い

「大正時代まで各地で行われていた習俗。戦後、高度成長期直前まで、各地の農漁村に残っているところがあった。」
「多くの場合男性が女性のもとへ通うものだが、女性が通う風習を持つ地域もあった。」
「そもそも各地の共同体ムラにおいては一夫一婦制と言う概念も希薄で、重婚、夜這いは当たり前であった。」
「かつての農村では、「村の娘と後家は若衆のもの」という村落内の娘の共有意識を示す言葉が聞かれることがあった。」

「近代化以前の農村には若者組があり、村落内における婚姻の規制や承認を行い、夜這いに関しても一定のルールを設けていた。」
「ブータンには「ナイトハンティング」という文化で夜這いが定着しており、特に地方の男子は15歳前後になると兄弟や従兄に誘われて夜這いにいく。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 縄文人

「現在では世界中でもD系統(古モンゴロイド)は極めて稀になってしまったが、日本人はその希少な血を濃く受け継いでいる。
日本人以外の民族では、遠く西に離れたチベット人に強頻度でD系統が存在するだけである。
両者を隔てる広大な中央アジアにおいては、後の時代にアジア系O系統(弥生渡来人もO系統である)集団が戦いに勝って広く占有住居するようになり、 古モンゴロイドのD系統は駆逐されて島国日本や山岳チベット等の僻地のみに残ったと考えられる。」

NHK大河ドラマ「平清盛」では、清盛は白河法皇の御落胤であったとされている。

平安時代まで、法皇や関白でも夜這いに行く。平清盛の御落胤説も、白川法皇と平忠盛が、祇園女御の妹の所に交代で夜這いに行っていたので、どちらの子か、わからなくなったということなのだろう。

「よくわからないけれども、自分の子かもしれない」「とりあえず、面倒をみよう」
ということで、白川法皇は清盛を庇護したのではないかと思う。平清盛の立身出世には、このような夜這い文化が背景にある。

頓知で有名な一休さんも後小松天皇の御落胤といわれている。一休さんには天皇になれる可能性もあった。
しかし、一休さんの祖母には足利義満との不倫の噂があった。後小松天皇の系統が続くのであれば、天皇家の血筋が足利家に代わる可能性がある。
そのため、一休さんは天皇になれなかったのではではないかという説がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 後円融天皇

「2月1日には出産を終えて宮中へ戻った妃の厳子に対して義満との密通を疑ってこれを殴打、母親の広橋仲子の説得や義満による医師の派遣も効果がなく、 11日には愛妾の按察局が義満との密通を疑われて出家させられた。」

古代から中世は多夫多妻制による通い婚が多く、氏族間の婚姻同盟は容易だったと思う。
天皇家と藤原家、源家と北条家、北条家と安達家、足利家と日野家等、例は多い。坂東平氏の租といわれる平良文は文武に優れた好男子だったという。
女性に人気があった。このため、坂東の豪族の娘に通うことで勢力をのばした。坂東平氏は平良文の子孫といわれる。

また、時代は下るが、徳川氏・酒井氏の祖、松平親氏や岩松氏・畠山氏の祖になった足利義純も平良文と同じように、婚姻で、躍進した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 松平親氏

「松平氏・徳川氏の始祖とされている人物である。」「信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、徳阿弥は還俗して松平三郎親氏(次郎三郎とも)と名乗ったという。」 「また、後に松平氏の重臣となる酒井氏の始祖酒井広親は、親氏が松平氏を継ぐ以前に三河国碧海郡酒井村の領主の婿となって生んだ子であるという。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 足利義純

「足利 義純は、鎌倉時代初期の足利一族の武将。源姓畠山氏・岩松氏の祖。義兼の庶長子であるが、大伯父の新田義重に新田荘で養育されたという。畠山重忠が元久2年(1205年) 6月の畠山重忠の乱で北条氏の手により滅ぼされると、義純は重忠の未亡人(北条時政の娘)と婚姻し、重忠の旧領と畠山の名跡を継承した。 義純は元々従兄弟の新田義兼の娘来王姫と結婚しており、子時兼・時朝らを儲けていたが、妻子と義絶しての継承であった。」

他氏族から優秀な人材を迎え入れるのに、多夫多妻制、妻問婚は適している。

武蔵は出雲氏が開発したというが、その血筋は物部氏に代わっている。尾張の尾張氏や紀伊の紀氏も婿養子を迎えることで、藤原氏に代わっている。
しかし、氷川神社、日前神宮・國懸神宮、熱田神宮の宮司は女系で古代から続いている。祭祀が途絶えることはなかった。欧州の王室にもこのような例はみられる。英国が有名である。

ウェールズの君主 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/ ウェールズの君主

「ウェールズ大公の本家は滅亡したが、傍系は生き残った。テューダー朝はその一つである。」「オウエン・テューダーはヘンリー5世の未亡人キャサリンと秘密裏に結婚した。

そして2人の孫であるヘンリー7世が薔薇戦争を勝ち残り、イングランドの王冠を手に入れた。ヘンリー7世は自らの王権を正当化するために、アーサー王伝説と絡めつつ、 ウェールズ大公家に繋がる血筋を最大限に利用した。」

プリンス・オブ・ウェールズ

http://ja.wikipedia.org/wiki/ プリンス・オブ・ウェールズ

「もともとプリンス・オブ・ウェールズの称号は、グウィネズ地方のウェールズ人支配者(公)、 ルウェリン・ザ・ラストことルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズのほぼ全域のウェールズ人の諸侯に支配力を及ぼして、全ウェールズの君主を意味する
ウェールズ大公(英語でプリンス・オブ・ウェールズ)と称したことに始まる。 この場合のプリンスは王子ではなく、主権を持った一国家の君主(元は第一人者」の意)

すなわち「公」あるいは「大公」と訳される地位のことであり、

英文呼称である Principality(公国)の元首という意味である

(4)『平 清盛』 2012年大河に登場!

http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/55763.html

「巨大な港を築き、海外に繰り出す夢を描き、海に浮かぶ荘厳華麗な厳島神社を造営し、中国との交易で巨万の富を築く。
争いでもなく、家柄にこだわるのでもなく、貿易こそがこの国の豊かになる道だと人々に説いた男」

しかし、興味深いのは、沿海地域を拠点とした、海の豪族、北条氏・三浦氏・安西氏が最初から一貫して源氏方だったことである。
このことは、内陸部の武士が、源氏方が優勢になるまでは平家方であったことと対照的である。
後に、鎌倉武士の鑑とうたわれた畠山重忠でさえ、衣笠城合戦では平氏に味方し、母方の祖父である三浦義明を討ち取っている。

中世になっても、関東地方は、武蔵国と下総国の低地は陸化が進んでおらず、低湿地で通行に適しなかった。
そのため、東海道は三浦半島から海路で房総半島に渡るルートとなっていた。古代から中世にかけての関東地方は、入り江が、現在よりも内陸に入り込んでいる。
このため、東京湾では強力な水軍(海賊)が、活躍していた。
戦国時代の里見水軍は有名であるが、中世の東京湾、相模湾では、平家が根拠とした伊勢湾、瀬戸内と同様に交易船と海賊船が我が物顔で、横行していた。
東国、沿海地域の武士と平 清盛(伊勢平氏)は交易の利権をめぐって対立していたのではないだろうか?

(余談)

平氏の嫡流ともいうべき平頼盛は、母、平宗子が頼朝の命を助けたことから源氏に厚遇された。平頼盛の系統は鎌倉時代、公家として続いた。その系統が不明になるのは南北朝の動乱の時である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 平頼盛

「頼盛は八条院の庇護を受けながら、密かに鎌倉の頼朝と連絡を取っていたと思われる。それは、後白河の意向を受けてのことだった可能性もある。」
「そして後白河が義仲の頭越しに寿永二年十月宣旨を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。都は極めて不穏な情勢となり、10月20日、頼盛逐電の情報が流れて騒ぎとなった。」
「親鎌倉派である一条能保(頼朝の義弟)・持明院基家(頼盛の娘婿、能保の叔父)も危険を察知して鎌倉に亡命した。」「頼朝は頼盛を「如父(父の如く)モテナシ」た。」
「頼朝は頼盛に荘園33ヶ所を返還している」「頼盛の子孫は鎌倉幕府の御家人となり、頼盛-保業-光度-為度-維度-宗度-顕盛と続いた。
「頼盛の所領の一部は孫にあたる久我通忠後室(光盛の娘)を通じて久我家に継承された。 当時の久我家は村上源氏嫡流でありながら内紛で所領のほとんどを失い没落寸前であったが、頼盛の旧領を足がかりに再興され、後には源氏長者を独占するほどまでになった。」

(5)奥州藤原氏も東アジアの交易で富み、栄えた。奥州の「馬、金、鷲羽」を京都で多彩な文物と交換した。
また、京都を経由しない、酒田などからの日本海ルートでも、中国・宋と直接、交易した。
太平洋ルートも開拓し、愛知県の渥美、常滑窯の陶器、奄美諸島周辺の夜光貝、を手に入れ、中国側の貿易港だった寧波(明州)につなぐ海路で中国の白磁製品などを入手した。
交易路は、さらに東シナ海全体に拡大し、象牙、サイの角、紫檀材を購入している。奥州藤原氏に先駆した安部氏は前九年の役で源氏に敗れた。

一族の安倍宗任は太宰府に流された。しかし、九州・松浦党の祖となり、子孫は繁栄したといわれる。安部氏の後裔といわれる奥州津軽の安東氏も交易で栄華を極めた。
安東氏は沿岸部の良港を押さえていた海の豪族である。安東氏の本拠地・十三湊は北アジア交易の要となる港市として知られる。安東氏は日本海に巨大な交易網を形成した。
そのため、多大な経済的利益を得ることが可能になったとされている。その勢力は津軽海峡を跨いで蝦夷地に及んだという。安東氏の先祖である安部氏も交易で栄えていたのではないかと思う。
奥州藤原氏は半ば独立した政権であり、独自の東アジア交易が繁栄をもたらした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 松浦氏

安倍宗任が前九年の役で敗れたあと、治暦三年(1067年)に太宰府に流されるが、子孫繁栄して、松浦党となった。
この伝えは、百練抄、前太平記、歴代鎮西要略でも記されている。安倍宗任は、宗像氏の配下となり、筑前大島の統領となる。
宗任の三男・安倍季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。」



http://ja.wikipedia.org/wiki/ 安東氏

「津軽地方を中心に西は出羽国秋田郡から東は下北半島までを領した豪族である」

「その後、鎌倉時代末期から南北朝時代を通し津軽十三湊を本拠地とし栄えたと言われる」

「西の千竈氏と東の安東氏の比較検討研究が進み、ともに中央部の武士団に比べて所領面積が広大であり、国家の境界外に及んでいる点が指摘されている。
その実態は、交易を通じての経済的権益であると推定されている。」
「安東氏の所領は稲作には必ずしも適さない土地に広がっており、その内陸部から得る利益は少ないものの、 日本海に大きな交易網を形成することにより多大な経済的利益を得ることが可能な沿岸部の良港を押さえていたことから、海の豪族とする見方がされている。
その勢力は津軽海峡を跨いで蝦夷地に及び、蠣崎氏ら蝦夷島南部の渡党を被官とした」

(6)鎌倉時代の尾張の御家人千竈氏は北条得宗家の被官として海上交通を掌握した。
承久の乱以降、薩摩国の所領を与えられ、坊津、喜界島、奄美大島、沖永良部島、徳之島、屋久島下郡などの重要港や奄美群島の島々を支配した。
交易を通じての経済的権益は鎌倉幕府 (北条得宗家)にも上納されていたと思う。

(7)鎮西八郎為朝が琉球(沖縄)に行き、その子が琉球王家の始祖舜天になったといわれる伝承は滝沢馬琴の小説「椿説弓張月」で有名である。
伊豆大島から奄美大島・沖縄へ抜ける黒潮ルートが古代からあったのであろう。奥州藤原氏が中尊寺・金色堂のらでん細工に使った夜光貝は奄美諸島周辺が産地である。

源義家は河内源氏である。河内源氏は鍛鉄業者から権益を得ていたといわれる。

鎌倉周辺にも良質の砂鉄が産出される。鎌倉五郎入道正宗のような名工が使用したといわれる。源氏は鉱物資源を利用した製造業を支配し交易に利用していた可能性がある。

平家だけではなく、源氏も海と交易に深く関わっていった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 住吉大社

「海の神である住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と息長足姫命(神功皇后)を祀り、 住吉大神」と総称される。」
「古代大和王権の外交・航海に関連した神社で、遣隋使、遣唐使の守護神で、津守氏は遣唐神主として遣唐使船に乗船した。」
「住吉津は、上代(奈良時代・平安時代 初期)は、シルクロードにつながる主な国際港でもあった。」
「清和源氏武士団を最初に形成した源満仲は、摂津守であった天禄元年(970年)に住吉大社に参籠し、住吉大神の神託により摂津国多田(兵庫県川西市多田)を源氏の本拠地としている。」
「宮司の津守氏は神官であると共に一族は武士も輩出しており、源満仲の三男で河内国壺井(大阪府羽曳野市壺井)を本拠地とした源頼信を祖とする河内源氏とは源為義の頃には婚族の関係にあった。」

(8)また、相模・武蔵は渡来人の入植地である。高座郡、高麗郡、新羅郡、狛江、志木の地名はその名残といわれる。
高句麗王族若光を祖先とする玄武若光の子孫は高麗神社の宮司として現在まで続いている。渡来人を統制するためか、武蔵の国司には百済最後の王である義慈王の子である。
善光を始祖とする百済王氏がなることが多かった。百済王氏は河内を本拠地としている。百済王氏の敬服は金を最初に発掘したことで知られている。渡来人は東アジアとの交易でも活躍していた。


高麗氏

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 高麗氏

「668年の高句麗滅亡により、約1799人の高句麗人が日本に亡命した。

703年(大宝3年)に高句麗王族とされる高句麗使の玄武若光が高麗王の姓を下賜される。

なお若光の子孫は代々、高麗神社の宮司として現在まで続いている。」


百済王氏

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 百済王氏

「百済王(くだらのこにきし)氏は、百済最後の王である義慈王の子である善光を始祖とする」
「百済寺は中世に焼失したが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残る。」

「平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の和氏出身であったため天皇の外戚とみなされ厚遇を受けた。
一族の娘を桓武天皇・嵯峨天皇らの後宮の宮人とし、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。」


「百済王神社の神主家である三松氏は百済王氏の後裔を称した。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 稲飯命

「『新撰姓氏録』は、稲飯命は新羅王の祖であるとする異説を載せている」「朝鮮の歴史書『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀では、「脱解本多婆那國所生也其國在倭國東北一千里」とあり 新羅の4代目の王にして昔氏王統の初代である脱解尼師今は倭国の東北千里にある本多婆那國の出であると書されており、関連性が見られる。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 瓠公

「瓠公は新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣」「もとは倭人とされる。 新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である」



(9)倭寇

http://ja.wikipedia.org/wiki/ 倭寇

「前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、 「三島倭寇」と総称された。朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられる。」

「後期倭寇の中心は私貿易を行う中国人であったとされ、『明史』日本伝にも真倭(本当の日本人)は10のうち3であるとも記述されている。」


http://ja.wikipedia.org/wiki/ 鄭成功

「倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名」
「日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に生まれた。」
「鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、1661年に台湾を占拠していたオランダ人を追放し承天府及び天興、万年の二県を澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも翌年に死去した。」


http://ja.wikipedia.org/wiki/ 王直

王直は、鄭芝龍の先駆者であり、浙江省舟山諸島、平戸や五島列島を根拠地としていた。

徽王と自ら名乗っていたとも言う。海外交易で栄えた平戸の松浦氏や五島列島の宇久氏とも同盟関係にあった。

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